今日は、いま携わっている仕事がようやく順調に動き出したことで、体感的には本当に久しぶりに安堵することができた日だった。その詳細については、また後日書くことになるだろう。今夜はそんなことの後押しもあって、久しぶりに、ウェス・アンダーソン監督の『ホテル・シェヴァリエ』と『ダージリン急行』の2本立てを見た。
この1セットの映画は、僕の中で一番大切な映画作品の1つだ。色々と思い出深いエピソードもある。でも、それとは関係なく、今日は以前見たときとはまた違う気付きも得ることができた。
この作品の最大の特徴は、非常に狭い空間で、大の男3人が身体を曲げたり寄せたりして折り重なるシーンの連続だ。それは、たびたび挿入されるスローモーションによって強調される。そんなシーンを今になって見返していると、あたかもTumblrで何度もリブログされてくる「オシャレ」画像、もしくは、instagramで加工されてアップロードされる、トイ・カメラ風の画像のように見えてしまった。
その「オシャレ」さとは、実際には文字通り「オシャレ」な感覚を兼ね備えているわけでもなく、すでに一形式として固定された「オシャレ」の範疇に留まる感覚、すなわち、(一般化されたという意味で)「普通」という形容こそふさわしいように思う。いや、もっとストレートに言うのなら、そのシーンを見ているときに、僕はあたかもTumblrのタイムラインやinstagramにアップロードされた画像を見ているときのような感覚になった。
その「普通」さは、必ずしも平凡なものに終わるわけではない。むしろ、時の流れに揉まれていく過程で、「普通」に思えた形式の特殊性が浮き彫りになっていき、より輝きを増すものも中には存在する。それを判断する基準は、「クオリティ」でも「アイデア」でもない、もっと抽象的な感覚や経験からくるものなのだが、実際、それを言葉に置き換えられないだろうかと考えてしまう。
どうしてこの映画はこんなに「普通」でありながら「特殊」な感覚を残して、記憶に残り続けるのだろう。


